小学生の時に両親が離婚

いったん母親に引き取られたがすぐに母方祖母に預けられ、仕事を見つけたら迎えにくると言われたものの、母からの音信は間もなく途絶えた

以来私を育ててくれた祖母は祖父の後妻で母と血の繋がりはなかったが

「これからは女も仕事を持って自立して生きられなくては」と常々私に言って聞かせ、パートを掛け持ちして学費を工面し私を大学まで上げてくれた

しかし大学3年の時にその祖母が急死

あまりに突然のことで、県外の大学に通っていた私は死に目にあうことすらできなかった

悲しいを通り越して茫然自失のなか、親身になってくれた近所の人たちと葬儀社さんのおかげで何とか一連の葬儀を終えた

それだけでも人生最大といっていい修羅場だったが、そのあとがまた大変だった


私は当時、学生寮に住んでおり、祖母が暮らしていたアパートは引き払うしかない

二人部屋(6畳間)に持っていける家財はほとんどなく、残る家財も処分するしかない

相続、というほどのものはないにしても預貯金の名義変更など諸々の手続きも必要

大学は長く休めないし、アパートの立ち退きが遅れればそのぶん家賃も増える

頼れる親戚もおらず、悲しみに浸る間もなくひたすら奔走した

そしてそれらが一段落したころ、さらに驚くことがあった

当時、私は経済的に厳しい学生を対象にした授業料免除を受けていたのだが、その対象から外されてしまった

成績が落ちた訳ではなく、祖母の死に伴う私の環境の変化が原因だった

アパートを引き払った私は唯一の住所が寮になったため、これまで自宅外から通っていることになっていたのが、自宅通学の区分に入ってしまった

さらに祖母の保険金やらが所得とみなされたことで、自宅通学生の授業料免除ラインを越えてしまったようだった

頼るもののない当時の自分にとって祖母の残したお金はまさに生命線

生活費のためのバイトを増やしたが、ちょうど学業も多忙になる頃でバイトにも限界があり、卒業まで持ちこたえられるか覚束なかった

幸い次の年からは再び免除が受けられたが、通帳の残額とにらめっこしていたあの頃の不安な気持ちは忘れられない